チャンスを与えてくれた特別な人
義理の父が他界して今年が四半世紀。あっという間に25年が過ぎた。来月のこどもの日が義理の父の命日である。義理の父に初めて会った日のことは、今でも鮮明に覚えている。学校を終えて自宅に帰ると、我が家の庭に黒塗りのベンツが止まってた。ちょっと心配しながらリビングルームに入ると、いかつい顔をしたおじさんと、その後ろに別のいかつい顔をしたおじさんが正座していたのだ。
やっ、やくざか!? なぜ、やくざが私の家にいるのだ・・・。それが、私の最初の反応だった。恐る恐る母のほうを見ると、母は、私に向かって「こちら〇〇さん」と言って、そのおじさんを紹介した。目の前のおじさんが、母にとって特別な人だと気が付くのにそれほど時間は、かからなかった。ちなみに、後ろで正座をしていた別の男性は、専属運転手だった。思春期の私には、両親の離婚後に他人を家族というプライベートなスペースに招くのは、正直、抵抗があった。自分の子供っぽい抵抗で、おじさんのことを『社長』と呼ぶことに決め、『これ以上の私の領域には踏み込んでくるな』という境界線を彼と自分の間に引いたのだ。
「お父さんって呼んで」と社長に言われた時に回答にすごく困った。別に嫌いではないのだが、好きでもない。どう接してよいかわからない。白黒はっきりしている自分が、母と結婚もしていない男性をなぜ『父』と呼べるのだ。ありえなかった。今になってみれば、社長を『お父さん』って呼ばなかったことを心から後悔している。人間の心というのは、決して変わらない部分もあるが、成長するごとにコロコロと変わり、とてもいたずらな部分もある。相手が喜ぶ呼び名を呼べない自分は何と人間の小さいク〇ガキであったのだろう。それに、私が家でも彼のことを社長と呼ぶことで、会社とプライベートの気持ちの切り替えなど、到底できなかっただろうに…ごめんね、社長。
社長は、呼び名のとおり、社長。いくつもの会社を経営して、とってもお金持ちの人であった。社長は、母を大切にし、母の夢も叶え、母を甘やかしもしたので、母のことがきっと大好きだったに違いない。素敵な家に、お庭の手入れをしてくれる人、家のお掃除をしてくれる人、お洋服のクリーニング屋さん、お花屋さん、近所のペットストアー(我が家の熱帯魚水槽掃除係)が出入りをして、専属運転手がいつも車をピカピカにしてくれていた。働くシングル・マザーだった母が、お金を水のように使う専業主婦になり、そんな母を反面教師にして私は自立した人間になろうと決意した。母の幸せボケが、自分の目には、リスクとして映ったのだ。『他人の力で得たものは全てバブルである』というのが私の孤独な人生論である。
自分が大人になり、自営業で生計を立て、労働の対価として収入を得るようになって、改めて社長の器の大きさを実感できた。自分の力量の小ささに情けなくなる時もしばしば。金持ちだからと驕り高ぶることなく、誰にでも優しい人格者であった社長は、自分の経営するゴルフコース周辺農家のじっちゃんとばっちゃん達には、産地直送のグルメ食材を定期的に自ら届けて回るハンブルな人であった。怪我をしている野生動物を見つければ直ぐに保護。笑ってしまうのは、車のトランクに動物を捕まえる網をいつも常備していたこと。怪我をしている動物や野良猫・犬を見つけると、運転手に捕まえるように命令したのだ。運転手にしてみたら、完全に彼の職務の圏外である。ペットの里親探しも貢献していたし、彼自身も動物を可愛がる人であった。そういえば、社長が買い込んでいたトイレットペーパーの山は、彼が他界して5年後にやっと最後の1ロールを使い切ったって母が笑っていた。
イギリス留学中に社長の悲報を受け、家路につくまでの移動時間は、真っ暗闇を歩くように不安な気持ちだった。ヒースロー空港に到着すると、ブリティッシュエアウエイズの担当者が挨拶に来て、私のアップグレード手続きを始めた。社長は私の夏休みの里帰りのために、数か月前からファーストクラスへのアップグレードを準備をしてくれていたのだ。家族なのに他人行儀な私には、もったいないくらいの気遣いであった。社長に依存しきった母親をバカにしていた娘のファーストクラスも、高級スーツも全てが社長が与えてくれた物であり、結局自分も母と同類であって『社長に支えてもらっての自分』に気が付いたのだ。母と私の大きな違いは、母は自分が与えられた幸福を喜び、私はその幸福をけなしていたのだ。自分の愚かさに気が付いた時には、胸が締め付けられる苦しさと後悔の気持ちで、ただ泣くことしかできなかった。
「バカなふりをしていれば、自分の目の前の人間の本性が分かる」と、社長が教えてくれた。「人に良くしてもらったら、3倍にして返しなさい」というのも、社長の教え。恨みを倍にして返すのではなく、お礼を倍にして返すのが社長の流儀。周りの人から『仏様』のような人と言われるのにふさわしい考え方である。そんな社長も長生きという運には恵まれず、享年56歳で天国に旅立った。私が大学に入学する姿も見ないまま逝ってしまったのだ。こんな生意気な子供を文句一つ言わないで育ててくれてありがとうのお礼も言えないままである。
社長がもう少し長く生きてくれていたならば、もう少し社長との距離を縮める時間をくれたならば、私は、素直な娘になれていたかもしれない。そんな後悔が、5月が来る度に、チクっと私の心を刺すのだ。