『許すこと』と『優しさ』を持って帳消しにする努力中

時代の変化とともに家族の定義も変わってきている一方、親子の縁って、そう簡単に切れるものではない。だから、悩むのだ。

機能不全家族、虐待、毒親、家庭内暴力・・・・家族の問題って、たーくさん。

家族をテーマにした名作が尽きないわけだ。ちなみに、私自身もサバイバーの一人である。虐待加害者というのは、たいてい自分が虐待を与えているということに気づいてない。自分が子供にしている行為が常識の範疇を超えた行為であると認識していないのだ。

虐待を受ける子供は、自分自身が崩壊しないように、身体的・精神的な痛みに耐え、ストレスに耐え、期待を捨て、子供なりにその瞬間その瞬間をサバイブする。空気を読み、親の言うことをよく聞く子供の役割(技か?笑)をしているうちに、ティーンエイジャーになり、大学生になり、大人になった。私は、虐待加害者と距離を置くことで、虐待が、自然消滅するものだと思っていたのだ。高校2年生の冬に親元を離れた自分の正直な気持ちは、『ほっとした』のであった。

ところがどっこい(死語だよね、これ?)、私の場合、虐待の第2ラウンドは、親子喧嘩で戻ってきたのだ。人生の課題と言うものは、年齢によって変化する。精神的にも経済的にも自立した子供は、虐待加害者に自分の意見を言うようになったのだ。「昔のあなたは、そんな子じゃなかった」と言われる度に、親と自分の距離が、途方もなく離れてしまったことに胸が痛む。

弱さは不要である。雑草のように強く生きなければ!と、自分なりに頑張ってきたつもりだ。だから、昔の自分の一部は、置き去りにしてきたのだ。それは、自分が成長するために必要な犠牲だと判断したからである。ただ、ここ数年、自分のインナーチャイルド(大人になった自分の心の奥底に住んでいる幼い頃の自分)が、「おいっ、こらっ、無視するな!心に傷をおった状態のまま大人になったら、生きづらい人生になるぞ」と、言ってくるのだ。

あー、(o_o ;)困った。

インナーチャイルドの切実な叫びは、無視するものではない。『これからの人生をどのように生きていきたいか?』という質問の裏側は、『置き去りにしてきた自分のインナーチャイルドと、どう向き合うか?』である。仏教の教えを用いると「相反する二つを離れて、それらが別のものではないという真理を悟るのである。もしも、相反する二つの中の一つを取って執着すれば、たとえ、それが善であっても、正であっても、誤ったものになる」という『未来の自分』も『過去の自分』も『別のものではない』のだ。

怒り、不安、悲しみ、傷、トラウマ・・・ネガティブな気持ちから自分を解放しなければ、私は、『悪』になってしまうだろう。現に、自分が『悪』になる素質が、十分そろっているのは無視できない事実である。自分が、健全に生き残っていく道とは、許すことと優しさを持って帳消しにすることなのである。これは、私の個人的意見であって、被害者が加害者を許せと強要しているのではない。イギリスに『悲しみを忘れ去るのに、ドイツ人は酒を飲み、フランス人は歌をうたい、スペイン人は泣き、イタリア人は眠る』ということわざがある。ヒーリングのメソッドは、人それぞれである。私が、虐待加害者を許すということに重きを置く理由は、自分自身を苦しみから解放してあげることも意味しているのだ。自分を愛してあげるために選んだ選択である。

自身の趣味が陶芸ということもあり、人生論を無理やり陶芸に例えて丸め込む癖がある私。中心が取れていない土を上に持ち上げれば持ち上げるほど、歪みは大きくなるのだ。自分の人生に言い換えると、自分の人生の基本がゆがんでいるため、年を重ねれば重ねるほど、その歪も大きくなる。そんな状態で強行突破をしたものならば、出来上がった皿は、へにょへにょである。失敗作も個性だと、バイアスな言い訳で窯に入れて焼いてしまったら、まあ、大変。ひびまで入って出来上がり。へにょへにょになってヒビが入った作品が40代半ばの自分自身の投影なのだ。

ひびは、金継ぎで修整をして、傷を輝きに変身させる。人生も同じである。苦労と経験をたくさん積めば人生に深みが出る。深みを闇にするのか?輝きにするのか?は、自分次第である。不完全な部分に愛をいっぱい込めて修正した作品は、味があって愛着がわく。その愛着が自分の愛し方なのだ。完ぺきではないけれど、どこか憎めない人生。だから、明日は、少しでも平和な気持ちで良い人間になれるように努力。