アリのようになってはいけないぞ。私の大っ嫌いなイソップ寓話『アリとキリギリス』
人生半分生きたし、遺言状も書いたし、最近では、自然の摂理に任せて生涯を全うしようという考えが強くなってきた。要は、流れに任せて人生を過ごすということだ。癌になったら、治療しないで、我が家の畑のキュウリのように自然に朽ちるように死ねばいいと思うと、人生をもっともっと楽しまなくては!とやたらに気合も入る。笑
私は、よく『アリとキリギリス』の話をする。
童話を簡単に要約すると、努力家のアリさんは、毎日コツコツと働き、刹那に生きるキリギリスさんは、毎日を歌い楽しく生きていた。冬が到来すると、コツコツ食料を貯蓄していたアリさんは、報われた一方、キリギリスさんは、寒さと飢えに苦しむという結果だ。キリギリス死亡説もあれば、アリさんに食料を分けてもらって反省した説もあり、結末は私にもわからない。元奴隷の寓話作家であるアイソーポスの『語り』が発端のイソップ童話なので、アリが美化されても仕方ない。
なぜ、私が『アリとキリギリス』の話をするのかと言うと、「アリのように真面目にコツコツと・・・」なんてきな臭い説教を他人様にするのが目的ではない。『アリとキリギリス』のイソップ童話が大嫌いなのだ。小学生の時から嫌いである。なぜアリのような社会性概念を『良いもの』とするのかが疑問である。子供に聞かせる話ではないぞ、これは!
アリのどこがいいのか?毎日、統制のとれた集団行動をして、死骸や人の食べ残したクズを食らい、色が白いと『白アリ』とイチャモンを付けられ、容赦のない殺虫剤攻撃に会い、女王アリに搾取され、毎日おなじ分業をこなし・・・個人の意思や意見など無である。羨ましいこと1つもないじゃないか。自由はどこだ!!
キリギリスもそれと言って、童話の中では「うわぁー、いいなぁ~」と羨ましい人生を送ってはいないのだが、あえて言えば、自分の好きなことをして生きたことは確かである。彼には、自由という素晴らしい財産があった。もし、運が後押しをしてくれていたなら、歌が一発当たって大もうけしたかもしれない。または、Youtubeのフォロアーが増えて、小銭も稼げたかもしれない。自由には、沢山のポテンシャル(可能性)がある。
私は、キリギリスの人生に大賛成だ。自分の人生に責任とプライドを持って、人様の迷惑にならないという姿勢で、自由に自分の好きなことをして人生を過ごすべきだと思う。自分の人生が幸せか不幸せなのかを決めるのは、結局は、自分次第なのだ。アイソーポスよ、絶対にお前が、決める事ではないことは確かだ。自分が死ぬ直前に「ああ~、私の人生いろいろあったけど、楽しかったなぁ~」と感謝して幕を閉じれれば本望である。食べたいものを食べ、行きたいところに行き、好みの男を追いかけ、Kポップ・アイドルにときめき、大切な仲間を愛し、私は、自分の気持ちと欲望に正直に生きると決めている。